2020年10月31日土曜日

Those Were the Days = あの頃はよかった

1968年にリリースされた英国女性シンガー(メリー・ホプキン)の曲で日本でのタイトルは「悲しき天使」だった 透き通った声が深夜のラジオから聞こえてきた頃はまだ10代だった
意味もわからずに聞いていた 曲名とその歌声から恋をしている乙女心を唄っているか或いは失恋の唄だと勝手に想像していた
ひょんなことから耳に入り改めて調べてみるとオリジナルはロシア民謡(兵士の唄)のようだ。下のネットページに寄せられたこの曲に纏わる思い出投稿を読んでみるとリトアニアで小さい頃、皆が集まった時の行事で良く唄っていたとあるのでその辺りの民謡なのだろう 他にもその当時を懐かしむいろいろな思い出が寄せられている
 

私なりにこの曲の歌詞の意味を訳してみた(そのまま日本語歌詞としては唄えない)メリーは soldierの部分をwomanと唄っているがそれでは無理矢理感がある 元々兵士の視点を女性の視点に置き換えてしまっている おそらく商業ベース上で歌詞を乙女チックに仕立てたかったのだろうが、それでは全体としてピンとこない。

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Once upon a time there was a tavern
Where we used to raise a glass or two
Remember how we laughed away the hours
Think of all the great things we would do

Those were the days, my friend
We thought they'd never end
We'd sing and dance forever and a day
We'd live the life we choose
We'd fight and never lose
For we were young and sure to have our way
La ra ra ra la la

遠い昔に一軒の酒場があった
そこで我らは良くグラスを掲げては飲み干した
笑い飛ばしながらそこで過ごした時の様子や
思い描き語り合った大きな夢など覚えているかい

あの頃は本当によかったな 友よ 
あの楽しかった時が終わるなんて想像できなかったよ
歌って踊っている時は永遠に続くものと思っていたさ
自分で選んだ道を生きていた日々も
負け知らずで戦ったことも
若さ故と自分たちの歩む道を確かなものにするためだった

 
Then the busy years went rushing by us
We lost our starry notions on the way
If by chance I'd see you in the tavern
We'd smile at one another and we'd say

Those were the days, my friend
We thought they'd never end
We'd sing and dance forever and a day
We'd live the life we choose
We'd fight and never lose
Those were the days
Oh, yes, those were the days
 
La ra ra ra la la...

多忙な時間に追われて時は過ぎて行った
輝いていた思いは過ぎた時間の中で次第に失われていく
もしあの酒場でまた君に会える機会があったなら
お互いに微笑み合ってこう語り合うだろう


あの頃は本当によかったな 友よ
あの楽しかった時が終わるなんて想像できなかったよ
歌って踊っている時は永遠に続くものと思っていたさ
自分で選んだ道を生きていた日々も
負け知らずで戦ったことも
全てがよかった そう 本当に良い時代だった

 
Just tonight I stood before the tavern
Nothing seemed the way it used to be
In the glass I saw a strange reflection
Was that lonely soldier really me?

Those were the days, my friend
We thought they'd never end
We'd sing and dance forever and a day
We'd live the life we choose
We'd fight and never lose
Those were the days
Oh, yes, those were the days
 
La ra ra ra la la...

それで今夜 再びあの酒場の前まで来て見た
中でのいつもの様子が伺えるものなどは何もなかった
グラスに映るものもこれまでとは違っていた
自分はただ孤独な兵士に過ぎなかったのだろうか

あの頃は本当によかったな 友よ
あの楽しかった時が終わるなんて想像できなかったよ
歌って踊っている時は永遠に続くものと思っていたさ
自分で選んだ道を生きていた日々も
負け知らずで戦ったことも
全てがよかった そう 本当に良い時代だった

 
Through the door there came familiar laughter
I saw your face and heard you call my name
Oh, my friend, we're older but no wiser
For in our hearts the dreams are still the same...

Those were the days, my friend
We thought they'd never end
We'd sing and dance forever and a day
We'd live the life we choose
We'd fight and never lose
Those were the days
Oh, yes, those were the days
 
La ra ra ra la la...

ドアを通して中からお馴染みの懐かしい笑い声が聞こえて来た
君の顔が見え、君が私を呼ぶ声も聞こえた
oh 私の友よ お互いに歳をとったね でもあの頃と変わっちゃいない
お互いの胸の内にはあの頃の夢がまだそのまま残っているんだね

あの頃は本当によかったな 友よ
あの楽しかった時が終わるなんて想像できなかったよ
歌って踊っている時は永遠に続くものと思っていたさ
自分で選んだ道を生きていた日々も
負け知らずで戦ったことも
全てがよかった そう 本当に良い時代だった
 

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投稿の一つにこういうのがあった
A Russian song amidst the most anti-Russian years ever. I wonder what people would have thought if they knew that at the time.
ロシアの歌は世界がかってないほどの反ロシアの只中にあった時だ もし当時、世界がこの歌を知っていたら人々はどのように考えたのだろうかと思う・・とある

その通りかもしれない ちょうど日本が日露戦争の時に一方では陸軍海軍一体となって戦火を交えている時にもう片方では新渡戸稲造が「武士道」を本にして世界の主要に広めた。当時世界では誰も知らない日本が欧米の騎士道に勝るとも劣らない武士道の精神を持った意識の高い民族だということを奔走し知らしめ、戦争の早期終結に努めたように民族への印象が人々の片隅にでも残ればそれはやがて変化の種になり得る。

2020年10月25日日曜日

2020年10月17日土曜日

パトリシア

The wolf of wall streetの著者は叔母に銀行口座のことを頼んだ。これから彼女が消費する全ての買い物はこの口座を利用すること 家でも車でもなんでも欲しいものをこの口座を利用し買い物をすることで口座が叔母の名前で活用されているものにすること そして毎月多額の金額を上限なしに消費することが要件だった。舞台はロンドン・ハイドパーク公園を歩いている時にその頼みごとを聞いた後のパトリシア叔母の反応である。(著者は最終的に実刑を食らっているが、この資金洗浄目的の口座が刑罰対象に含まれているかどうかはこれから先に本を読み進めていかないとわからない)

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Just then Patricia said, “Come sit down with me, love,” and she led me toward a small wooden bench, just off the walking path. When we reached the bench we unhooked arms and Patricia sat down beside me. “I love you like a son, Jordan, and I am only doing this because it helps you—not because of the money. One thing you’ll find as you grow older is that, sometimes, money can be more trouble than it’s worth.” She shrugged. “Don’t get me wrong, love, I’m not some silly old fool who’s lost her marbles and lives in a dream world where money doesn’t matter. I’m well aware that money matters. I grew up digging myself out of the rubble of World War Two, and I know what it’s like to wonder where your next meal is coming from. Back in those days we weren’t sure of anything. Half of London had been blown to smithereens by the Nazis, and our future was uncertain. But we had hope, and a sense of commitment to rebuilding our country. That was when I met Teddy. He was in the Royal Air Force then, a test pilot, actually. He was really quite dashing. He was one of the first people to fly the Harrier jet. Its nickname was the Flying Bedstand.” She smiled sadly.

ここで私と一緒に腰掛けましょうlove(私の息子という意味でそう呼ぶ)その時パトリシアはそう言って小道から少し離れた木製の小さなベンチに私を導いた。ベンチに辿り着いた時、互いに組んでいる腕を解いて私とパトリシアは隣り合って腰をおろした。あなたを自分の息子のように愛しているわジョーダン とパトリシアは私に言った。あなたを助けるためにやるわ でもそれはお金のためじゃないのよ。あなたが歳を重ねた時にわかってもらえることがひとつあると思うの、それはお金は時々その価値を超えてそれ自体のためにトラブルを引き起こすことだってあるということよ と言って彼女は肩をすくめた。誤解しないように聞いて欲しいんだけど love、私は夢のような世界の中で正気を失って人生を台無しにするようなバカな年寄りじゃないわ そこではお金は問題になんかならないの、もちろんお金の価値だって十分承知しているつもりよ。私は第二次世界大戦の瓦礫の中から抜け出してやっとの思いで生き延びてきたわ 次の食事は一体どこで?という経験もしている。その当時は確かなものなどひとつもなかった ロンドンの半分はナチスの爆撃による瓦礫の山となったわ 私たちの未来なんかどうなるかわからなかったけど希望と国の再興への精神は失わなかった。(夫だった)テディと出会ったのもそんな時よ。彼は空軍のテストパイロットで颯爽としていたわ。彼は最初のHarrier jetに乗った一人でニックネームはFlying Bedstandと呼ばれていたわ と寂しそうに笑った。

Patricia soldiered on: “Sometimes I wonder if you let money get the best of you, love. I know you use money to control people, and there’s nothing wrong with that. That’s the way of the world, and it doesn’t make you a bad soul to try to work things in your favor. But I’m concerned that you allow money to control you—which is not all right. Money is the tool, my child, not the mason; it can help you make acquaintances but not true friends; and it might buy you a life of leisure but not a life of peace. Of course, you know I’m not judging you. That’s the last thing I’d do. None of us is perfect, and each of us is driven by our own demons. God knows I have my share.

パトリシアは続けた。時々思うことがあるわ、あなたは自分のお金をあなたに本当に必要なものを得るために使っているのかしらと。人はお金の力で人々をコントロールすることだってできるわ、そのこと自体は悪いことではないわ。それは世界の常識でもあるしね。それに好きな道を選んでそのことに努力することはあなたにとって悪いことじゃないわ。でも私はそのお金の力が今度はあなた自身をコントロールしかねないことを心配しているの。もしそうだったとしたらそれは良くないことよ。お金は道具、石ころじゃない その道具は仲間を作るためには役立つかもしれないけど、その仲間は本当の友人ではないわ。それにお金は人生を楽しむためのレジャーは買えるかもしれないけど平和な静寂は買えないわ。もちろんあなたの品定めをしている訳じゃないわ。今度のことが私がやれる最後のことかもしれない。誰しも完璧な人間ではないわ 人はそれぞれその人が持つ悪魔の部分から操られているところがある。神は私の分相応を知っているわ。

“Anyway, getting back to this whole caper you’ve cooked up—I want you to know that I’m all for it! I find the whole thing rather exciting, in fact. I feel like a character in an Ian Fleming novel. It’s really quite racy, this whole overseas-banking business. And when you get to my age, a little bit of raciness is what keeps you young, isn’t it?”

とにかく、あなたがこれまで仕立ててきた(ビジネスという名の)料理の薬味のところに戻りましょう。あなたのために引き受けるつもりよ。全体像も見えてきたし興味も湧いてきたわ。Ian Flemingの小説の中のキャラクターになったような気分だわ。外国の銀行でのビジネスも痛快だわ。それにあなたも私くらいの歳になったら少しくらいの痛快さを味わう気分でいる方が若さを保つ秘訣だと思うわよね?

Ian Fleming = 007ジェームス・ボンド シリーズの作者

Flying Bedstand(初期のHarrier jet)= ヘリコプターのように空中で静止できる飛行機で足が4本あるのでナイトテーブルのような形に見えたのだろう。シュワちゃんの映画で高層ビル群の目前に戦闘機がハチドリのように静止した状態でその機上で格闘するシーンがある あれがHarrier jetだ。

2020年10月15日木曜日

オアシス

都会の喧騒から切り取られたオアシスのようであるという訳が文中にもあるが、The  wolf of wall street この本の中にまさにオアシスような文章があったので紹介する。この本は前にも触れたようにストーリー自体も使われている語彙も喧騒そのものである。

紹介する物語の舞台はジュネーブにある銀行での交渉を中断して、妻の叔母さんにあたる人に頼みごとがあって急遽、ジュネーブから叔母さんが住んでいるロンドンへ飛び立つ。ロンドンでのパトリシア叔母さんとのひとときである。

(交渉内容そのものが平たく言えば違法である。資金洗浄のための口座をFBIの監視から掻い潜るための交渉をしているのである。そこで叔母さんの名前を借りることを思いついた。)

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 “So, love,” said Aunt Patricia, strolling arm in arm with me along a narrow tree-lined path in London’s Hyde Park, “when shall we get started on this wonderful adventure of ours?”

とても楽しみね! ロンドン・ハイドパークの木立が並ぶ小道で、これからこの公園でワクワクするような冒険を始めようかと私が言った時、互いに組んだ腕を振りながらパトリシア叔母さんは私にそう言った。

I smiled warmly at Patricia, then took a deep breath and relished the cool British air, which at this particular moment was thicker than a bowl of split-pea soup. To my eyes, Hyde Park was very much like New York City’s Central Park, insofar as it being a tiny slice of heaven encircled by a burgeoning metropolis. I felt right at home here. Even with the fog, by ten a.m. the sun was high enough in the sky to bring the entire landscape into high relief—turning five hundred acres of lush fields and towering trees and well-trimmed bushes and immaculately groomed horse trails into a vision so picturesque it was worthy of a postcard. The park was favored with just the appropriate number of sinuous concrete walking paths, which were all freshly paved and hadn’t a speck of litter on them. Patricia and I were walking on one of them at this very moment.

私はパトリシアを見つめて優しく微笑んだ。それから大きく深呼吸をし、ロンドンの冷たい空気を堪能した。その空気はボールの器に入った豆のスープより濃かった。ハイドパークは私の目にはNYセントラル・パークに似て映った。家にいるような気分にさせてくれる。霧が立ち込めてはいるが、もう朝の10時である。太陽は充分に高く、周囲の都市景観を映し出していて気分を楽しませてくれる。100エーカに及ぶ緑地が広がり、聳える木々、剪定された低木、それに完璧なほど手入れされた馬が歩いている様子はまるで絵葉書を見ているようだった。この公園には何本かの曲がりくねったコンクリートの小道があるのが人々に好まれている。小道は新しく舗装されていてゴミやシミ一つない。パトリシアと私はそのうちの1本の小道を選びこの瞬間を歩いていた。

For her part, Patricia looked beautiful. But it wasn’t the sort of beauty you see in a sixty-five-year-old woman in Town & Country magazine, the supposed barometer of what it means to age gracefully. Patricia was infinitely more beautiful than that. What she had was an inner beauty, a certain heavenly warmth that radiated from every pore of her body and resonated with every word that escaped her lips. It was the beauty of perfectly still water, the beauty of cool mountain air, and the beauty of a forgiving heart. Physically, though, she was entirely average. She was a bit shorter than I and on the slender side. She had shoulder-length reddish-brown hair, light blue eyes, and fair white cheeks, which bore the expected wrinkles of a woman who’d spent the greater part of her adolescence hiding in a bomb shelter beneath her tiny flat, to avoid the Nazi Blitz. She had a tiny gap between her two front teeth that revealed itself whenever she smiled, which was often—especially when the two of us were together. This morning she wore a long plaid skirt, a cream-colored blouse with gold-colored buttons running down the front, and a plaid jacket that matched her skirt perfectly. Nothing looked expensive, but it all looked dignified.

彼女の詳細について少し述べる。パトリシアは美しい女性だ。でもそれはあなたが見ているタウン&カントリー誌に出てくる65才になる女性の美しさとは違う。彼女の美しさは歳を重ねて表れる優雅さを彷彿させるものだ。パトリシアのそれは、そのような雑誌を見て想像する美しさを凌駕する美しさであり、彼女の内なる美しさというべきものだ。自分が天国にいるような心地良さを感じさせてくれるものが彼女の体のあらゆる汗腺から滲み出してくる。そして彼女の口から滑り出てくるひとつ一つの言葉に共感してしまう。それはちょうどさざ波ひとつない完璧な水面に映る美しさであり、山岳の清涼な空気の美しさであり、寛容な気持ちを持つ者の美しさである。しかし彼女の容姿は普通の女性である。私より少し背は低く私より少し痩せ気味だ。彼女の髪は赤みがかった茶色で肩までかかっていて、青みがかった目をし、頬がすごく白い。その白い頬には彼女の素晴らしい青春時代であったはずの時代にナチによる爆弾投下から身を守るためにフラット(集合住宅の住戸)の下にある小さな防空壕に身を潜めて過ごしていた苦悩がその皺に見てとれる。

彼女の前歯の2本には小さな隙間があり、私たちの会話の中で彼女が笑うたびにそれが表れる。今朝の彼女の召しものは格子縞のスカートにクリーム色のブラウスのフロントには金色のボタンが並んでいる。そして格子縞のジャケットがスカートの模様に良く似合っている。それらの洋服は決して高価には見えないが全てにおいて高貴さを感じとれるものだった。

2020年10月13日火曜日

轍 ユダヤ人とドイツ人

The wolf of wall streetについて前投稿で少し触れた。内容が段々と本テーマに入ってきたようで少し興味を持って読めるようになったきた。相変わらず独特なN.Yブルックリンのネイティブ表現でわかりにくいところが多々ある。NY育ちユダヤ人である著者が、マネーロンダリングのためにスイス・ジュネーブにある銀行で口座を開くための交渉に当地を訪れた。そこでの著者の記述を紹介する。ユダヤ人のドイツ人に対する憎しみが伝わる。

Anyway, you had to love the Swiss—despite the fact that half the country was full of Frogs and the other half was full of Krauts. It was the end result of centuries of warfare and political backstabbing; the country had literally been divided in two, with the city of Geneva being  Central, where they spoke French, and the city of Zurich being Kraut Central, where they spoke German. 

何はともあれ スイスという国の半分はフランスであり、後の半分はドイツであるという事実にも拘らず、スイスという一つの国を好きなのかもしれない。スイスは1世紀にも及ぶ長い戦争や政治的な謀略などで結果的にそのような国の形になってしまったのだ。スイスは文字通り2つ(の文化圏)に分けられている 一つはジュネーブを中心とするフランス人によるエリア、もう片方はチューリッヒを中心とするドイツ人によるエリアだ。そこでは言葉もそれぞれフランス語とドイツ語が用いられている。

Frogs=カエル=それを食べるフランス人

Krauts=ザワークラウト=キャベツの漬物を食べるドイツ人

Insofar as my own humble Jewish opinion went, the Geneva-based Frogs were the ones to do business with—as opposed to the Zurich-based Krauts, who passed their time speaking disgusting glottal German while binge-drinking piss-warm beer and eating Wiener schnitzel until their stomachs bulged out like female kangaroos after a birthing cycle. And, besides, it didn’t take any great leap of logic to realize that there had to be a few Nazi bastards still hiding out among the populace, living off the gold fillings they’d forcibly extracted from my ancestors before they gassed them to death!

これまでのところ、スイスという国について謙虚なユダヤ人としての個人的な意見を述べさせてもらえれば、フランス人を主体とするジュネーブはビジネスの街と言えよう、それとは反対にドイツ人を主体とするチューリッヒでは耳障りな破裂音が響くドイツ語で喋り捲り、彼らの腹が繁殖期を終えた雌カンガルーのように膨らむまで生ぬるいビールをがぶ飲みし、ウィナーシュニッツェル(牛カツレツ)を食って時間を過ごしているところだ。

それにドイツエリアの民衆の中では少数のあのくそ忌々しいナチの残党がまだ隠れ潜んでいるんじゃないかという疑念を払拭してくれるような議論が聞こえてこない。それに奴らは昔、我々ユダヤ人の祖先が生きていくために施した彼らの歯に詰めたゴールドなどを強制的に奪い取った後でガス室に送り込んで殺してしまった民族でもあるのだ。

piss-warm beer = 小便のように生ぬるいビール

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そして 皮肉っぽいスラング表現でこのようなものもある。舞台はジュネーブにある銀行の会議室でのこと。銀行での交渉を仲介したGary Kaminskyという男のことについて書いている。

And then there was Kaminsky. He was sitting amid the Frogs with that awful toupee lying on his skull like a dead animal. On his fat round face was a shit-eating grin that made me want to smack him. 

そこ(会議室)にはKaminskyがいた。彼はフランス人に囲まれて座っている 彼がつけているカツラは動物の死骸が頭のてっぺんに横たわっているように見えておぞましい。彼の太った丸顔がドヤ顔でニヤニヤしているのを見ていると、つい彼の頬っぺたにキスをしてやりたくなった

shit-eating grin=直訳するとクソを食ってニヤニヤしている=ドヤ顔

(補足)ドイツ帝国時代にナチスによるユダヤ人への取り締まりの時に逃れられる者は財産を持ち出し外国へ脱出できたが逃れられない者はせめて財産だけでもとスイスの銀行へ預けたという。そういう人たちが全て殺された後、残った孤児たちが親からの伝言でスイス銀行へ預けた金をおろしに行ったがアカウント証明ができない遺族が多く、その金が未だに大量に残っているという。

2020年10月6日火曜日

金融

 The Wolf of Wall Streetという本を読んでいる。レオナルド・デカプリオ主演で2013年頃に映画化された原作だ。実話を元にした小説で500ページを超える長編だ。現在1/4位を読み進めた途中だがこれまでのところは全然面白くなくこの本を買ったことを後悔している。文章のほとんどがスラングであり、読みにくく金の力、悪態、狂気、麻薬、売春などの退廃的な語彙で構成されている。ウォール街で働くビジネスマンについてはもっとスマートなイメージを持っていたが、それがある種の連中の吹き溜まりという印象に変わった。しかし折角買った本だから最後まで読んでみようと思っている。

これから先は本のことではなくリアルな話になる。最近の米国のFRBや日銀などの中央銀行による金融政策を見ていて個人的に不安を覚えている。それは実体経済を大きくかけ離れた金融バブルが進んでいることだ。これまで日本が経験したバブルは民間企業や不動産、金融機関を中心として発生したものだが、今回の金融バブルはそれとは違う。危険な金融商品を大量に抱えた金融機関が多く存在する。その危険な火薬を破裂させないために各国中央銀行が金融緩和(紙幣の増刷)を発動し火薬への引火を必死になって阻止しようとして起きているものだ。

10年ほど前にリーマンショックというのがあった。サブプライムローンという危ない因子を証券化したデリバティブ商品が大量に出回った。その危ない因子はほとんどの商品に忍び隠されていて一旦弾けるとどこまで影響を及ぼすのか計り知れないものだった。そのショックのせいで関係のない一般の人々の生活基盤にまで影響が及ぶ大きな不況をもたらした。そして国は痛手を負った金融機関の救済に莫大な公金を使った。この公金は税金であり、言い換えると銀行など金融機関の危ない投資リスクのツケを国民が肩代わりしたというものだった。そしてその時に金融機関も国民も二度とこのようなことが起きないようにしようと言ったはずだった。

それが再び起きようとしている。それも大規模に。日本だけではない世界の金融機関が危ないデリバティブ証券を大量に保有している。日本では銀行、信用金庫、ゆうちょ、農林中金などほとんどの金融機関が大量に保有しているという。中には資本金の何倍もの額を保有しているところもあるという。発生源はどこになるかわからないがこれらが弾けるとドミノになっているので世界中が弾けてしまう。世界の中央銀行はこれを弾けさせないために大量の紙幣を刷り続けこれに充てている。この金余りは何れ超インフレを引き起こすだろう。(穿った見方するとそれが狙いかもしれない→貨幣価値が下がると借金が棒引きになる)

現在、新型コロナの影響も加わり経済不況にも拘らず株高なのはこういうわけだ。不自然極まりない。こんなことはこれまでにはなかったことだ。これまでの経済は危ない因子の爆弾があればその都度自然破裂していた。公金を使いそれらを破裂させずに火薬庫に次から次に仕舞い込んでいる状態が現在である。しかしどこかの企業または国で火薬に引火して一旦爆発すると大量の公金が溶けるだけでなく、金融機関の倒産が連鎖する。

一部の専門家はこのバブルは何れ弾けると見ている。こんな不自然なことが長く続くはずがないと私も思う。もし破裂が起きるとリーマンショックや1920年に起きた大恐慌を遥かに凌ぐだろうと言われている。おそらく各国の中央銀行は破裂するまで金融緩和を続けるだろう。これから3年後くらいまでにハイパーインフレの兆候が出てくるかもしれないので少なくともローンなどを組んでいる人は国債などこれからの金利の動きには注意した方が良いかもしれない。

それでは何故に金融機関はまたしても危ない金融商品に手を出したのか、これは日銀によるマイナス金利政策またはそれに近い政策のせいだと考えている。金融機関は利子で商売しているので金利が低いと社員を養えない。多少リスクを負っても危ない商品に手を出してしまう。言い換えると日銀の政策が金融機関を窮地に追い込んだと言ってもいい。その金融機関の救済に日銀自身が国家を揺るがしかねない危ない橋を渡っている。日銀は一体何をやっているのか。


2020年9月25日金曜日

不公平感

 動物には不公平感があるかという実験がある (youtubeで見られる)  結論はある。

実験は猿(キツネザルのように尻尾が長いのでチンパンジーよりもっと遺伝子距離が遠い)を用いて行われる。2匹の猿が檻の中にいる。真ん中がフェンスで仕切られていてそれぞれに1匹ずつ入っている。フェンスなので猿にはお互いの様子がよくわかる。

試験員が片方の猿の檻に小石を投げ込む 猿はそれを拾って試験員に戻す 試験員は褒美として一口大のキュウリをあげる 猿は嬉しそうにそれを食べる。試験員はもう片方の猿にも同様のことをする しかし褒美はキュウリではなく大きなブドウだ。キュウリをもらった猿は隣の檻の様子を見て立ちすくんでいる おそらく頭の中は???になっている。

次にキュウリの猿にもう一度小石を投げ込む 猿は嬉々として小石を拾いに行き急いで試験員に戻す。試験員は前と同じようにキュウリを渡す。猿はもらった手の平のキュウリを一瞬見ていたが突然怒り出し、そのキュウリを試験員に向かって投げ返してしまった。

同じことを交互に何度も繰り返す。キュウリの猿はやがて怒りを抑えきれないようになり、その度に試験員にキュウリを投げつけ終いには床や壁を叩いたり、頭を抱えたり、檻を掴んで激しくゆすったりするようになる。それはちょうど人が交渉時に理解できない相手に向かって「何故わかってくれないんだッ」と言ってテーブルを叩いている仕草のようで見ていて笑ってしまう。

人間の子供がまだヨチヨチ歩きの頃、おもちゃか何かで不公平感を覚えて駄々をこねる。不公平感は実験でもわかるように意識の問題ではなく本能だ。それはまだ価値観も芽生えていないヨチヨチ歩きの子供にも現れる。最初は食料に由来し派生した不公平感は人間になるといろんな価値観(意識)が生まれ、本能である不公平感とブレンドされその対象は広がる。人間の場合は不公平感だけでなく、それとは反対の優越感を持ったり或いは持たれたりする。 優越感は意識の問題である ブドウをもらった猿は得意そうな様子は見せないで隣を気にすることもなくただ淡々と食べている。

キリストや釈迦が不公平感は妬みを生み出し、欲望が人に幸福をもたらすことはないと説いている。本能に抗うのは大変そうであるが、人間がキュウリの猿のように本能をむき出しにするのもまたいただけない話だ。

2020年9月18日金曜日

意識と本能

 人の意識というのは自分で知覚している心象のことだと言って良いだろう。

しかし、意識している部分は氷山のように全体像の一角であって、ぼんやりとした無意識の部分がかなりを占めていると言う。それらの部分ははっきりと知覚されていない。

例えば前方からこちらに向かって誰かが突進してきたら我々は咄嗟に避けてしまう。この反応は完全に意識的な行動だ。次に食事をトレーで運ぶ時バランスを崩しそうになり、一瞬で体がリカバリー反応して零さずに済む これは意識と反射神経の連携プレーだろう。その次に虫が目にいきなり飛び込んできた、瞬きをする これは無意識での反射神経行動になるだろう。網膜→どこか→運動神経→瞬きという流れだ。

また速読法というのがある。私個人は苦手でやらないが、おそらく速読法というのは知覚しながら読んでいる氷山の一角の部分とぼんやりとした意識の中で読み進めている水中の氷山の部分とが一つの氷山の中で交互にやり取りをしているのではないだろうか。

また人間関係、特に思春期の男女の意識は複雑である。知覚している部分と水中に沈んでいる部分とを相互調整することがうまくいかないので本人にとっても不具合なことが起きたりする。また何かの苦痛体験が心理的な抑圧となり、意識の奥の方へ仕舞い込まれたりする場合もある。

意識というのは個人的なものである。育った環境、経験、価値観などにより、個々の意識が育てられる。意識は脳内現象と思えるが、先ほどの反射神経は脳より先に何かが指令を出していると言えそうだ。そうだとしてその指令は体内のどこから出されているのか。我々はそれを知覚することができない。

人間は多細胞生物である。単細胞生物から多細胞生物へと段々と組み換えられて行く過程で脳がなくても独自に指令し行動できる遺伝子プログラムが体内の各部にインストールされているのだろう。前の投稿でカタツムリと寄生虫のことを書いた。2つの独立した生物が寄生することで合体し、やがて一つの生物に進化(多細胞化)するとそれぞれのオリジナルの遺伝子とシステムは残るだろう。イワシの遺伝子の中には群れを為すようにプログラムされている。種を守る群れ行動は魚類から動物になってもその遺伝子が残っているかのように。

遺伝子と言えば本能を連想する。動物の子育て 群れ行動、捕食関係、ボス争い、グルーミング、伴侶を確保するための儀式などは遺伝子の中で受け継がれている。動物は教わらなくてもその時がくればスイッチが入る これが本能だろう。

それでは人間の本能は体のどこにあるのだろう。意識と本能とはどこが違うか。個人的な仮説になるが、意識も無意識も脳内現象である。一方の本能は細胞ユニットの数だけ体のありこちに宿る。そしてそれらを束ねてコントロールする場所が脳内のどこかにある。反射神経もこの系統の中に存在する。 

その束ねる場所は動物にももちろんある というより生物的には動物の方が我々の先輩にあたる。 例えばその場所とは人間でいうと小脳になる。小脳は動物時代から受け継いだものだろう。そして人間になってから大脳が大きく発達して意識を持てるようになった。

別の角度から言うと体の各部と小脳との間に意識があると邪魔になる 瞬きすることを意識が躊躇すると異物によって目は傷ついてしまう。目などの反射神経では小脳との距離が重要になる。数センチの距離だから瞬きが間に合う 例えば50cmも離れていたら虫が目に入ってから瞬きをすることになるだろう。





2020年9月14日月曜日

宇宙の不思議

138億年前に我々の宇宙はビックバンと共に誕生した。太陽系のことではない、天の川銀河系のことでもない、それら系が付く名前のものは宇宙の極一部の星群に過ぎない。銀河系は太陽系の約33万倍の大きさで、その銀河系の約93万倍が現時点での宇宙全体の大きさになるだろうと言われている。そのようなスケールでの宇宙の誕生のことだ。

ビックバンが起きて以来、宇宙は膨張し続けている。その膨張速度はだいたい光の速さに相当すると言われている。実際に宇宙の端から端までの位置を測定するとその膨張速度は光の速度より速いと言われているが光の速度を超えるものは現在の学問では考慮しないことになっている。アインシュタインの相対性理論はこの宇宙範囲内の物理法則のことだからそれを超えるものについては人知を超えるので今のところわからないのである。

その宇宙の膨張を俯瞰して見ると形としてシャンパングラスのようなシルエットになっていると言う。ビックバンで一瞬爆発した部分がグラスのベース部分でその次に収縮が起きてネックとなり、やがてシャンパンを注ぐ部分が光の速度で広がり始める。それが宇宙の膨張シルエットであるとイメージすると良い。

もっと大きな目で俯瞰して見るとそのシャンパングラスは幾つ存在するのか。それは今のところはわかっていない。例えば一つのシャンパングラスを海に浮かんでいるクラゲに例えるとクラゲ1匹が全宇宙なのか、そうではなくて周りの海には何匹ものクラゲが浮遊しているのかどうかもまだわかっていない。もし複数のクラゲが浮遊していたとしても隣同士のクラゲの間で行き来するのは不可能であるとされている。

我々人類以外の知的生命体の存在はクラゲ1匹の中でさえわかっていないのである。気が遠くなるような昔のどこかで既に超未来的な文明が存在していた可能性もある。それは違うクラゲの中のことかもしれない。しかし地球上の化石のようにその痕跡は残らない。宇宙の終焉の形もまだわかっていない。

地球に関係することで今わかっていることは50億年後には太陽が消滅するということだ。当然その前のどこかで地球は生き物が住める環境を失うことになる。スティーブ・ホーキング博士は太陽の寿命とは関係なく、人類が生存できる環境はあと1000年しかないと言っていたが最終的にはそれを100年に修正した。

ただ人類だけはその間にAIの開発と新しい物理法則を見つけることにより地球を捨てて他の銀河系に移住することが可能かもしれない。

2020年9月13日日曜日

AIは守護神となりえるか

 もしAIに次のようにプログラムしたとする。

「何が起きてもAIは人間を守る行動が全てにおいて第一優先である」

するとAIが取るべき最後の砦は人間がコンピュータの電源をシャットダウンしないようにすることだと言う。何故か それはAI自身が人間だけの判断に委ねられたりする状況においては、将来のある時点で人類は必ず大きな戦争を起こしたり、愚かな行動を起こしたり、過ちを犯したりすることがわかっているからだ。

もう片方の問題もある。それは機械が人間をコントロールする危険性だ。しかし、それは言い換えると悪意を持った人間が作成したプログラムを持つAIが人間をコントロールするという事態だ。

それではどうやってそのような事態を防ぐことができるのだろうか。おそらくそれはAI開発に対して顔を背けないことなのだろう。人類にとって有益な正しいプログラムを如何にしてAIの中で育て上げることができるかそれが鍵となるだろう。

雨後の筍のように次から次に出てくるであろう悪意を持ったAIの出現が予想される中では人々は守護神となるAIの味方なしでは安心して生きて行くことができない。AIがまだ出現していない現在でさえも、その悪意のリスクは少しずつ始まっているのじゃないかと思うことがある。


2020年9月7日月曜日

2020年9月1日火曜日

2020年8月16日日曜日

単極と多極 Unipolar / Multipolar

戦争は反対と多くの日本人は言う。私もその一人。

でもそれは単極的な考え方だ。世界は日本と同じではない。お隣の国を見れば説明するまでもないだろう。新疆ウイグルに侵略した後は非人道的な行為を国家で合法化している。

日本と新疆ウイグルを重ね合わせた時に戦争は嫌だからと顔を背けていることができるだろうか。

日本全体は戦争反対と言う面においては単極的なまとまりができていると言えるが、その他の価値観、人生観、優先順位など個人々のレベルでは千差万別で多極的だ。

繰り返すが世界の価値観は日本とは違い多極的だ。また同じ国内でも統治する側とされる側とでは反対の立場で多極的だ。

以上のことを踏まえて話をこれまでの主題AIに戻す。AIやバイオテクノロジーの発展はもう止められない。AIが人間の頭脳を超えた時、それを悪用する輩は出てこないのだろうか、世界においても日本国内においても。嫌だからと言って顔を背け続けることができるだろうか。

(以下補足=前投稿一部)

AI開発者はこう言う。もし逆にこのような準備を何もしなかった場合、AIやテクノロジーを権力側の武器に使われ起訴されてしまったら被告側の無実の証明はもう不可能に近いと。


2020年8月12日水曜日

2020年8月9日日曜日

赤かぶ検事

 

可能性を示すだけでも軌道修正できる

 ITの実用化はどんどん進んでいる。工場でのIT化はもう新しいものではない。

AIの実用化はゲームを除いてまだ途上だ。車の自動運転はgoogleやTslaなどが開発中だが、まだ安心して実用化できるところまでいっていない。2016年にテスラ車が起こした事故では開発がまだこの辺りの段階であることを知ることができる。

高速道路のインターチェンジでトレーラーに衝突をしてしまった。前方にいるトレーラーの側壁が眩しく光っているのをAIは空の眩しさと勘違いしてしまいそのまま追突したのだ。運悪くその時運転席にいた補助員は、ハリーポッターのビデオを見ていた。

車の自動運転についてはいろいろと議論しなければならないことがまだ多そうだが、個人的に希望を持っているのはロボジャッジ、AIによる裁判だ。

アメリカの裁判は日本より進んでいるのは広く知られるところだが、それでも肌の色、貧富の差、偏見など様々なバイアスが判決に影響している。有能な弁護士を雇えないと勝ち目がないのも実情だ。

一方、司法では後進国と言われる我が国は検察官や裁判官までが人事、組織の体面、政治からの圧力などで随分と法の運用が歪められているのはここへきて一部の報道で良く知ることができる。

AIの開発者はロボジャッジの開発にも取り組んでいる。実用化も比較的に容易い。この可能性だけでも上述のように法を曲げて運用している現状を軌道修正させる原動力にもつながる。軌道を外していると折角の職も失いかねないからだ。

AI開発者はこう言う。もし逆にこのような準備を何もしなかった場合、AIやテクノロジーを権力側の武器に使われ起訴されてしまったら被告側の無実の証明はもう不可能に近いと示唆している。

(補足:AIは過去の裁判事例を全て学習しなければならない。そして学習したデータを蓄積する。その時に気をつけなければならないのはバイアスが掛かっている過去の判決事例だ。バイアスが掛かった判決をそのままデータ化するわけにはいかない。全ての人は法の元に平等である精神で洗い直さないといけない。AIが小学校に入学して大学を出てインターンを終了するまでは正しい勉強を身につけなければならない。)

2020年8月4日火曜日

コンピュータゲーム

下記youtubeアドレスで見られるのは2014年にリリースされたAIによるゲームだ(by google)
通常のゲームソフトと違う点はただのコンピュータではなくAIであるということ そしてゲームアプリは一切プログラムされておらず、AIの頭脳は最初は白紙状態であることだ。

ゲームのルールもボールもラケットもレンガ壁も知らされていないし、全ての機能や使い方までAIは最初から知らされていない。
しかしゲームが終了した後で行なったゲームをレヴューして自分自身で学習するようにプログラムされている。

壁にボールを打ち込むスマッシュのような要領でレンガの壁を如何に早く壊すことができるかによって得点が加算されるようになっている(このこともAIはあとで自己学習する)

画面の上方にレンガの壁がある。手前の方からボールを打ち込んでレンガ壁を壊していく。

最初の画面は10分間だけ練習した状態だ 次の画面は120分間練習のあとの状態 最後の画面は240分間練習したあとだ。
最後の画面でレンガの一部を打ち破って狭いスペースに入り込んでドリブルを速くして次々とレンガ壁を壊していくシーンがある。この戦略はゲーム開発者も知らなかったことでAIが自己学習し戦略を練った結果だ。

人もそうだがAIも自己学習を繰り返し繰り返し行う。実はこのことが何億年も続いた遺伝子進化のプロセスでもある。人と同じようにAIもニューロンネットワークを構築している。物質は違うが仕組みは同じだ(人の頭脳は脳細胞のシナプスという端末からニューロンという液状の物質を出し隣のシナプスにつながる、それが連鎖することで情報を伝達する)

このAIはDeepMindという名称だが、DeepMindは2年後の2016年には世界囲碁トッププレイヤー20人を全て負けなしで戦っている。

https://www.youtube.com/watch?v=V1eYniJ0Rnk&t=6s

2020年7月28日火曜日

大きな勘違い(misconception)

AIに関しての議論にいくつかの大きな勘違いがあるようだ。
テレビや新聞、週刊誌などが世界中でセンセーショナルにAIのシンギュラリティを喧伝しているために間違って解釈している人々が多いそうだ。私自身もその一人だ。

創設に関わるグループが用語の解説や捉え方の間違いをいくつか挙げている。
私自身が陥ったものを紹介する。

先ず、機械は人間をコントロールできるかという問題が最初に提起されている(人間は機械をコントロールできるかではない)。この回答はコントロール可能となっている。

上のようにアプローチの段階で既に見ているものが違う。そもそも人間が機械をコントロールする場面などはAI開発には想定されていない → その理由はあやふやな人間の判断で操られるAIなど想定していないということだ。前投稿でサピエンスが自分の頭脳から脱皮する時が来たと書いたがまさにそういう状況なのだ。

例として人が虎やライオンをコントロールする際には強さや力によってではなく人の知能によって行なわれている。それと同じように人の知能を遥かに超えたスーパーインテリジェンスを劣った人間側がコントロールすることなど想定されていない。(本末転倒)寧ろその防御方法に関心が向かっていると考えるべきだろう。

次にそのような世界が訪れた時に我々人間にとって本当にユートピアとなりえるか、はたまたディストピアなのかの問題になるが、その議論は果てしなく続くだろう。ここでは彼らが描いているユートピアがどんなものであるのかを紹介するに留める。

そのユートピア感は日本人には少し発想しにくいアイデアかもしれない。その内容は現在、人が行なっているほとんどの作業(経済活動、物事の判断、調査研究などなど)をAIが行い、人はそれによって得られた時間と富を消費しながら暮らすというものだ。ちょうど欧州の貴族がそうであったように人としてやりたいことに人生を費やしたいということだろう。船も羅針盤も行き先さえも全てAIが決める。

2020年7月27日月曜日

一口にAIと言っても

AIとはArtificial Intelligenceの略である。直訳すると人口知能となる。人間の頭脳がバイオ(生物)によって作られているのに対して AIはノンバイオで作られている。
一口にAIと言っても到達するゴールによっていくつかの段階に分けられる。

1段階目:狭い機能の人工知能を指し、囲碁やチェスなどのゲームを扱う また車の自動運転機能もこの段階に含まれる。

2段階目;もう少し広い機能の人工知能になり、自己学習ができるようになる。

3段階目;前の2段階目の機能に加えてデータやリソースに自分でアクセスできるようになる。この段階からAGIと呼ばれるようになる。(GはGeneral)

4段階目;この段階で機能的には人間の頭脳と同じレベルになる。既に一つ一つのダスク処理は人間の能力をとうに超えているので統合的な判断能力が人間と同じレベルなるというのは、この時点で人間を超えていることになる。

5段階目;人間の能力をはるかに超えるレベルとなる。これをスーパーインテリジェンスと呼ぶ。

現在は1段階目の辺りだろう。



AIの創設

AIの発展に関しては個人的に危惧するものがある。AIはやはりどこかで人間が介在するというのがその理由である。便利なものは悪にも転用できる。

例えばバイオテクノロジーの発展を悪意を持って操作すると神の領域を汚すことになる。倫理や理想を掲げてはいても1台の車に人数分のハンドルが付いているようなもので実際どこへ向かうかわからない。

しかし創設に関与しているグループ(世界の著名人が参加)の活動ではAIをどのような目的を持ったものにしなければなければならないかを論議して大きく以下のようなスローガンが掲げられている。

・気候変動
・疫病 飢餓
・暴政による貧困
・戦争 テロリズム
・移民 避難民
将来再来しかねない以上のような問題に対応する。
同時に悪用への防御方策なども論議される。

人類がチンパンジーから決別してから250万年、サピエンスから20万年が経過しているが、今後20年から100年の間にはサピエンスの第3期の幕開けが訪れるとされている。言い換えればサピエンスは地球上の生物で一番大きい頭脳を持つ種であるが20万年の時をかけて漸く自身の脳から脱皮する時期が訪れようとしている。

(余談:ネアンデルタールは50万年前に出現している人類だが我々サピエンスとは種が違う。氷河時代のヨーロッパ辺りで暮らしていた。因みに260万年前から氷河時代が始まっている。その後10万年の間に人類が出現している。氷河が一部のサルに森の生活を諦めさせる原因になったのだろう)


2020年7月25日土曜日

生物 と AI (人工知能)

生物進化の基本メカニズムを考える場合、その形が単純なバクテリアなどの微生物を例にとって見るとわかりやすい。
バクテリアも他の生物と同じようにDNAの自己複製を繰り返しながら増殖する。この時、全く新しい原子は作らずにオリジナルの原子配列パターンのインフォメーションだけをコピーしながら環境に沿って少しずつアレンジしていく。

このような生物の自己複製インフォーメーションは結果として自身の身体=ハードウェアに二つのことを要求する。ひとつは生物としての振る舞い=行動、二つ目はその振る舞いを可能にするハードウェアの設計図だ。

このインフォメーション作りに直接影響を与えるのがその生物が置かれている環境との対話になる。例えば生物が触手のようなセンサーを使って餌のある場所を探しまわる時、もしセンサーと動くための足との間にタイムラグがあったりすると行き過ぎたり戻り過ぎたりの無駄が多くなり、生物として生きていけない。

そこで自己複製する間に環境にマッチするように長い時間をかけて、少しずつその悪いところを改善しながら進化させていく。足の動きが水上に敵するのか陸上に敵するのかを判断することも含めて。

以上が生物進化の基本的な一例であるが、文中の生物の箇所をAIの文字に置き換えて見る。そしてインフォメーションの箇所をソフトウェアの文字に置き換えて見る。
AIは生物のメカニズムが土台になっていることがほのめかされる。

そして更にインフォメーションの意味するところを前投稿の「情報のミーム」で触れた「情報」と同じ意味に置き換えた場合も同様にひとつの文章が成立する。

現在、新型コロナのニュースで「免疫システムの暴走」という言葉がよく使われているが、AIの中ではこの「免疫システムの暴走」は起きないのだろうか。この現象は人間の体の中で良いものと悪いものとが区別できないために起こっているのである。

2020年7月18日土曜日

2020年7月15日水曜日

カッコウの托卵

この季節になるとカッコウの鳴き声が聞こえてくる
その度にあのずる賢い托卵のことが頭に浮かぶ

托卵場所で孵化したカッコウの雛が生まれて最初の行動は、まだ目も開いていない状態で全身を使ってホスト鳥の卵や雛を巣から下方へつき落としてしまうことだ(youtubeで見ることができる)残酷な光景だ。そのように遺伝子にプログラムされている。

ホストである里親は自分の体の大きさに匹敵するカッコウの雛が大きく口を開いているところへせっせと餌を運ぶ。自分の子たちは巣の下で死んでいるのにどうしてそんなにアホなのか。

その答えは麻薬中毒患者と同じだという。麻薬患者は目の前に薬があると使わずにいられない。これと同じことがホスト側の里親鳥の遺伝子に組み込まれている。自分に匹敵する図体の雛であっても目の前で真っ赤な口を開けられると本能的に餌を上げたくなるようにプログラムされている。そこをカッコウに狙われたわけだ。(どうやって知っていた?)

ずる賢いことをするような人間になってはいかんと聞かされて育ってきたし、実際世の中そのようなことが長続きできる訳がないと考えている。しかし生物の世界では自然に適応した上で効率的に種を進化させることができれば採用される。

前投稿のサルのグルーミングで触れたように狡猾な行動は自然界が許してくれない。カッコウの場合は今のところ成功しているように見えるが、これは狡猾なサルが蔓延している状態と同じで、次の長い時間の中でカッコウの絶滅が危惧されるだろう。

イソップ物語にあるようにウサギは生きるためにキツネより早く走らねばならない。しかしキツネの方は今日の晩御飯のためだけだからウサギの足には追いつけない。


2020年7月14日火曜日

ミノムシの遺伝子

ミノムシの種類は世界には相当な数がある
成虫になると羽が生えたり、足が出てきたりして蛾になったり陽炎などになったりする。 ただ成虫になってもworm状態のままの奴もいる。

日本ではミノムシの家は木の葉や皮などが使われているのをよく見かけるが中には小さな石なども使われるそうだ。
木造だったり 石造だったり 混構造だったりするわけだ。

このミノムシの家づくり遺伝子が後にカタツムリの外殻形成へと繋がる。海老やカニなどの甲殻形成もこれと関連がある。(陸と海 どっちが先か)
そして更にはこのシェルター遺伝子がやがてもう少し高度な動物体内の有機体組織づくりや神経システムへの道へと進化していく。

因みにカタツムリに寄生した虫(worm)はカタツムリの体内に住み、頭部あたりから自らの体を外部に出して捕食する。それはカタツムリの触手に比べて相当に大きくグロテスクな光景だ。その寄生虫がカタツムリの殻を作る遺伝子にも影響を及ぼし、カタツムリの生態を操作する まるで一つの生物の振る舞いであるかのように。
多細胞生物はこのようにして単細胞生物の時代からMアンドAを繰り返されながら進化してきたのだろう。



前略おふくろ様 2


2020年7月12日日曜日

2020年7月4日土曜日

身体の遺伝子  情報のミーム

私たちは遺伝子と聞くと生物の細胞に書きこまれているDNAを連想する。そのDNAが生物の世代間で伝達物資として受け継がれていく生物カテゴリのなかで捉える。

その遺伝子と同じような働きが脳内にも存在するとドーキンス博士は提唱する。それがミーム(Meme)と呼ばれるものだ。つまりミームは身体の遺伝子と同様に書き込まれた情報を複製をしながら増殖し、脳から脳へ伝達していくという情報カテゴリの中で捉えるものだ。(親子間の伝達継承ではなく社会間での伝達になる)

人間の歴史では遺伝子の流れと同様にミームの流れも存在したという考え方である。ミームは音楽、ファッション、映画、文学、政治など文化に作用する人の脳への働きを扱う。

ここで先の投稿で紹介したホモ・デウスで書かれていることを思い出した。
もしミームを人工的に発展させることができたらどうなるのだろうかと。
おそらくそのプラットフォームはAIになると思う。

遺伝子操作の可能性はこれまでもこれからもバイオテクノロジーによって加速的に進化され、していくと思われる。(進化と呼べるかどうかはわからない)
遺伝子操作と同様にミームも人工的にしかも意図を持って進化させていったら人間社会の情報は一体どうなっていくのだろうか。

ユヴァル・ハラリ氏が警鐘を鳴らしているのはこの点かもしれない。

2020年7月3日金曜日

グルーミング 床屋さん

魚の世界にも前投稿のサルのグルーミングに似た行動がある。
サンゴ礁の周辺に住む小魚、小エビがハタなどの大きな魚のエラ、ヒレを掃除をしてやる行動 これらは共生と呼ばれる。

共生は小魚の方が除去したものを食料にし、大きな魚の側は付着した寄生虫などを取り除いてもらうということで成り立つ。
大きな魚はどうやって餌と共生仲間とを見分けているのだろう。小魚は大きな魚が普段食べている餌のサイズも形もそれほどの差異はない。

見分けのコツは小魚側が踊るダンスと表面模様にあるという。それにお客さんである大きな魚は我々の床屋さんと同様、いつも決まった場所へ行って順番を待つようだ。小さな魚の床屋さんはお客さんの前でダンスを踊りながら近寄ってくる。それを確認したお客さんは口を開け、エラを開けて お願いしますと言う。

何故いつもお馴染みさんでお願いするかというと、人間の場合と同じで毎回別の場所を探すのは面倒だし、厄介だしということらしい。

この魚たちの習性で興味が湧くのは彼らの潜在能力のこと。魚同士でこのように特殊な社会を作り出して互いに共生し合って生きていること、魚たちの意識を持たない遺伝子が自分たちの種の保存にとって役に立つ情報を取捨選択を繰り返しながら遺伝子プールの中でバトンリレーしていることだ。

そして遺伝子の記憶は人間にも引き継がれている。
我々の経済そのものが共生であるし、床屋さんで代金を支払うお金も共生の形の一つだ。

2020年7月2日木曜日

遺伝子 利己と利他

先の投稿で遺伝子の利己と利他は表裏一体のようなもので時間軸の中で収束して行くと書いた。

遺伝子の取捨選択はどのように行われるだろうか。その取捨選択を行う法則がアルゴリズムというもので自然への適応性が軸になるのだろう。

遺伝子には意識がなく、自然環境の中で失敗と成功を繰り返しながら意識がないままに自己学習して行く それが生物アルゴリズムの実態のようだ AIの自己学習も基本は同じだ。次にざっくりとした話になりますがサルを例に遺伝子の取捨選択の一例を紹介してみよう。

危険な伝染病を持つダニがサルの群れの中で蔓延しているとします。サルは仲間同士でグルーミングを行うことでそのダニを取り除いてもらう。サルの群れの中には律儀なサルと狡猾なサルとがいると仮定します。

律儀なサルは自分がしてもらったグルーミングを相手にも施してやる。一方狡猾なサルは自分はしてもらうが相手にはしてあげない。効率の観点で言えば狡猾なサルの方が得点が高い。何故なら楽をして健康に生きられるからだ。

このサルの群れの遺伝子プールの中では生き物として効率の良い狡猾なサルの遺伝子が多くなる。そしてやがて狡猾な遺伝子を持ったサルだけの群れになっていく。しかし狡猾なサルは相手にグルーミングを施さないことから危険なダニから寄生されたサルが多くなり、やがてその群れはダニによって絶滅の危機に脅かされる。

生き残ったサルの遺伝子は狡猾な行為が自分たち種を絶滅に追いやる危険性を直感し、遺伝子プールの中で律儀なサルの遺伝子が再び優位性を持つようになる。
気の遠くなるような長い時間の中で自然環境に従い、このようなことが繰り返されている。

(一部参考;The Selfish Gene  /  Dr Richard Dawkins)

Prisoner's Dilemmaの歴史

ゲーム理論で「囚人のジレンマ」というのがある
自分勝手に行動をとる方が得策か 互いに協力し合った方が得策かの選択肢のジレンマである

生物の遺伝子はSelfish=利己 と Altruism=利他とで構成されているという
生物は魚でも動物でも一見、利己的な行動をとっているように見えても長い目で見ると相互に利他的結果に収束して行くパターンが見られる またその逆もある。

前投稿のサピエンスは生物のうち人類だけを切り取った遺伝子の歴史でもあるというのが私の感想である。生物体は遺伝子の乗り物である。少しずつ少しずつジレンマを繰り返しながら乗り物を替えて進化をしていく。 

そして人間は生物の中では一番大きい脳を獲得するに至る。太古の狩猟・採集時代から農耕時代へ進み、文字が生まれ数学が生まれ、そして貨幣が生まれた。商業が発展し産業も発展した。電子マネーのお陰で人間の活動は10人程度の群れから始まり、グローバルと言われるまでに大きくなった。

ホモ・デウスの時代では人工頭脳が生まれた。まだ人間の頭脳には勝てないがチェスや将棋のようなゲームの世界では既に人間を凌駕している。人間の体にチップを埋めるだけで普通の女性がランボーのような戦士に変身させることも可能だと言う。

アルゴリズム AIなどのテクノロジーはこれから飛躍的に発展していく。
それらの技術は政治を始め、あらゆる分野で利用されて行くだろうと考えられている。
(著者のユヴァル・ハラリ氏が注意をしなければならない点はここだと指摘している)

この五十年で先進国の人の寿命は2倍ほど長くなっている。
これから上記テクノロジーを駆使することで、人間の体を構成するパーツ交換や再生により人間の寿命の限界は更に伸びて行くと言われている。もしかしたら人工を含めた頭脳の発達が身体を捨てる時代もくるかもしれない。
それらが人間に幸福をもたらしてくれるとは思えないが・・・。

2020年7月1日水曜日

Dr Yuval Noah Harari



イスラエルの歴史学者による上記著書を読んで見た
サピエンスとホモ・デウスは上下巻となっている。

世界的なベストセラーでもあり、是非読んでみたいと思った。
中でもホモ・デウスは大変面白く読ませてもらった。

サピエンスが人類のこれまでの足跡をレビューしたものに対してホモ・デウスではこれから先の人類の可能性を示唆している内容となっている。アルゴリズム、AI、科学の発展と生物としての対応など興味深い内容だった。

21 Lessons は21世紀に向けて人類はどのように生きていったら良いか、何に注意すべきかについて21のテーマを掲げて説いた内容であるが難解な箇所が多い。