2010年5月11日火曜日

ダッチオーブンでアップルパイ

アップルパイを初めて焼いてみました。手造りパンに較べて意外と簡単にできるものだなという印象です。出来栄えは初めてにしてはまぁまぁといったところです。難点はお店においてあるものに較べて生地にサクサク感が足りないといったところでしょうか。それ以外は少しひいきめのようですが満足のいく仕上がりでなかなか美味でした。

職人さんが造ったパイのように薄い生地が幾重にもなり、心地よい食感はどのようにしたらいいのか今のところ全くわからないというのが正直なところですが、これから試行錯誤を重ねていくつもりです。これでアップルパイを私のダッチオーブン料理のひとつに加えることにします。

ダッチオーブンを使っているものの家庭のキッチンで造っていますので、蓋の上に炭を載せたりすることができません。そこで焼き色をつけるために図のようにちょっとした工夫をしてみましたのでそれを紹介します。

通常は上の図のようになりますが、この場合は蓋の上に炭を置かないと焼き色がつきません。その解決策として下の図のようにすき焼き鍋を空焼きしてオーブン蓋と交換しました。アップルパイは35分ほどの時間を掛けて焼きますが、最後の10分くらいのところですき焼き鍋と交換しました。

以下は想像ですが、最初からすき焼き鍋を使用すると空焼きは不要なのかもしれません。その理由は内部容積が小さくなり、金属の熱反射効果が増し、35分程で焼き色がつくのではないかと思うからです。次回はそのことを試してみたいと思います。

因みにこれまでにアップルパイを食べて一番美味しいと思ったのは代官山ヒルサイドテラス3の一画にある小さなお店で買ったものでした。もう何年にもなるのに未だに脳裏に残っています。あのようなアップルパイが自分でも出来たら嬉しいな。

2010年4月27日火曜日

ダッチオーブンで手造りパン

最近はキャンプに行っても飯ごうでご飯は炊きますが、あとは大概がバーベキューになります。ダッチオーブンはかなり重いということもあり、持ち運びを考えると余程の覚悟がないとキャンプに携行する気になれないのです。それでも前からせめて一度はパン造りには挑戦してみたいと思っていました。地方では旨いパンはなかなか手に入らないのも自分で造りたい理由です。

市販のパンを食べ続けているうちに段々と蓄積された造りたいという想いにある日突然火がついた。あるブログでダッチオーブンで造った石窯焼き風のパンの写真を見た時です。その気になったら直ぐに実行に移した。Webで材料を調べそれを買いに行った。道具で足りないものは今あるもので代用することにしました。先ず2.3回造って見てパン造りの実態を掴んでからでも遅くはないと思うからです。

食卓の上にお盆とボールを置き、材料を混ぜてこね始めた。秤なんてないので使用量は適当だ。何とかなるものです。今現在2回の経験だけですが、調味的な間違いは犯してはいないように思います。これまでで言えることはパン造りのポイントは大きく二つ、ひとつは捏ね、もうひとつは焼きではないかと思います。2回造っただけで偉そうなことを言うなと思われるかもしれませんがこの二つが全体の出来上がりを左右すると言っても良いのではないかと思います。

一回目のロールパンは完全に失敗作です。焼きの失敗。表面が硬くなりすぎたのは、発酵のときに湿気を与えなかったのと、焼き時間が長すぎたせいだと思います。市販のロールパンが全体的に焼き色がついているのはオーブン内全体の平均気体温だと思っていたのですが、でもそれは恐らく間違いでどちらかというとオーブンの直接温(輻射熱)の影響が大きいと思います。焼き色がつくまでと思い長く入れすぎました。

二回目の食パンは辛うじて合格点。捏ね30分、焼き25分です。パン型がオーブン底に近すぎたため、その部分が少し焦げたのと、生地が膨らみオーブンの蓋に当たってしまい見栄えが悪くなった以外は満足です。因みにキッチンで作っていますので下からの熱だけです。

キッチンでダッチオーブンを使用したロールパンの作り方は上図のように焼色をこんがりとつけるために点線のような金属で覆うと良いのではないかと想像しています。食パンの方は4面体の筒状のパン型をこれから探してみようかと思います。もうひとつ想像しているのはパンの種類によっては焼きの途中で蒸気を加えることを行っているのではないかと思います。とにかく思いつく度にそれを試してみて、しばらく試行錯誤を続けてみたいと思います。

2010年4月23日金曜日

アンチョビ入り牡蠣スパゲティ

十年ほど前に市ヶ谷のイタリアンレストランで魚ブイヨンが利いたスパゲティに出会って以来、その味に魅了されています。それを真似て始めのうちは自分で魚ブイヨンを作り、いつも冷蔵庫に貯蔵しておりましたが供給と消費のバランスが悪く、もったいなくて最近では良い魚のアラが出た時に作るくらいにしています。

しかし魚ブイヨンがなくてもおいしいパスタはできます。スパゲティと魚介の相性はとても良いのでいつも作りますが冬のメニューとして作るのが アンチョビ入り牡蠣スパゲティ です。アンチョビは自分で作ったものを使います。ニンニクも鷹の爪も入れます。作り方はニンニクの炒め方に注意することと牡蠣に火を入れすぎないことがポイントです。今年は時期的に牡蠣はもう終わりですが、一度試してみては如何ですか。マニアックな味を楽しめます。

因みに魚ブイヨンは玉ねぎ、セロリ、白身魚のアラを入れ、一時間ほど煮たダシスープです。これがあると冷たいご飯があるだけで簡単にイタリアンリゾットができるので便利です。パルメジャーノレジャーノを入れると言うことなしですね。

2010年4月18日日曜日

原風景

この季節に田んぼ道を歩くと蛙達のにぎやかな鳴き声が聞こえてくる。ここ宮崎市では早期水稲の田植えは既に終わっている。小さな稲がしっかりと土に根を固めている様子が歩きながらそれを眺める私にも伺える。秋に枯れ木で鳴いていた百舌は蛙を目当てに、直ぐ脇の林にその頃から巣作りをしていたのだろう。その鳴き声も重なって聞こえてくる。

私の原風景とも言える映像もこの季節のものである。夜道に母の背中に負ぶわれた私はまだ小さく2歳か3歳くらいであったろう。月明かりがあったのか、それとも感触が映像を創り出しているのだろうか、私の顔は母の肩と項の間に埋もれている様子が脳裏に残っている。そして今聞こえている蛙の鳴き声も母の背中で聞いていた。音の原風景でもある。

訪ねた先は、牛乳とヤクルトとを配達している家だった。そこで母は私にヤクルトを1つ買ってくれた。それだけの用事だったような気がしてならない。小さい私にも怪訝だった。母はヤクルトを私に与えると来た道を直ぐに引き返したように思う。子供を負ぶって夜歩くには結構長い道のりである。戦後10年過ぎたとは言え、当時は今ほど世の中は豊かではなかった。兄の世代ほどではないが、子供が食べ物をねだっても親はそれに応えようがないほどに余裕はなかった時代だ。あのヤクルトは何だったのだろうかと今でも思う。私の誕生日は5月だ。ささやかな誕生日の印だったのだろうか。

巣立ちした百舌の雛が新芽を出した梢に止まって途惑っている。雛に何かを促しているのか、傍らで親鳥がしきりに鳴いている。私は立ち止まって雛の様子をしばらく見ていた。そしてふと、親鳥が鳴いているのは私への威嚇であることに気が付いた。邪魔をしている私は早々に立ち去ることにした。そしてその先の道端には杜若の一群が娘盛りを顕示していた。

2010年4月2日金曜日

小笠原

小笠原に最初に行ったのはどのくらい前のことだろう。今でも船でしか行くしか方法がない。片道26時間くらいの所要だ。竹芝から5日おきに就航している。つまり最短期間は着いた日の三日後に同じ船に乗船するということになる。





中の3日間を船に滞在する事もできるが、私は父島の民宿を利用した。寝る間を惜しんで動き回った。夜になると浜辺にあるバーで飲み、ほろ酔いで砂浜をほっつき歩き、珊瑚と芝生が入り混じったところでしばらくの間寝た。そしてまた起きてバーに戻る。当時はアメリカ村という雰囲気をまだ残していた。昼間は父島周辺のボートダイビングだ。

二度目に行った時はひと月ほど滞在した。勤めていた建築事務所を退社した時だったのでその時間がとれた。それまでの夢であった聟島列島(通称=ケータ)でのスクーバダイビングを実現させるためだった。嫁島のマグロ穴を始めケータは憧れていたとおりの秘境だった。水彩画の2枚は一緒に行った人が描いたものです。パリの美術学校でデザインを学んだ彼女からは絵のこと以外にも多くを教えてもらったような気がします。

私たちに宿を提供してくれた小笠原の仲間たちは皆気さくで親切だった。最初の時に行ったバーとは異なるが、皆と一緒に酒も呑んだ。興が高じてきた時にキャロルキングの”You've got a friend"を大合唱した。月がきれいな晩は浜でタマナの木を叩いて酒を交わす。月明かりだけの海に服を着たままいっしょに泳ぎだした。皆どうしておられるだろうか。


釣浜はシュノーケリングに最適の場所だった。浜の入り口には防空壕があって、そこには太平洋戦争で使った機関銃が射手がいなくなっただけの状態でまだ残されている。小さな入り江になった浜で海底の美しさに、うっかりすると左右の岬を結ぶ線を超えてしまいそうになる。実際私たちは超えてしまった。川の流れのような恐ろしい潮流に巻き込まれる。

幸いにして岬近くの岩場まで3メートルくらいの場所だったのでそこへ辛うじて辿り着いた。僅か3メートルの距離なのに大海に放り出される覚悟をしたほどの潮流だった。フィンをつけていなければ恐らく辿り着けなかっただろう。

余談になりますが、ケータへのダイブはできましたが、まだ聟になることに飛び込んだことはありません。

2010年4月1日木曜日

カルロ・スカルパ

カルロ・スカルパ Carlo Scarpa.はイタリアの建築家。建築を志している人なら彼の名前を知らない人は恐らくいないでしょう。彼は1906年ヴェネチア生まれ、1978年に訪日中、仙台でなくなっています。生涯のうち、大半の仕事は古い建物のリノベーションに費やされています。創造的な修復を行い職人的・工芸的な建築家と言われています。右の写真はカステルヴェッキオ美術館で14世紀の古城を再生しています。場所はイタリア北東部ヴェネト州にあるヴェローナと言う町です。ロミオとジュリエットで有名なジュリエットの家から歩いていける距離にあります。



左のスケッチはヴェネチアからバスで一時間ほどの町にあるカルロ・スカルパ自身のオリジナル設計による最後の作品となったブリオン家の墓地にある建物郡の一画にある墓石です。彼自身の墓地もここに隣接しています。いくつかの建物が芝生の庭を囲み、それぞれを回廊でつないでいる。私たちが行った日は偶然にも彼の法事のセレモニーが行われていました。

庭に腰を下ろすと書籍で見ていた有名なシーンに接する事ができます。彼は日本の数奇屋建築に影響されていたと言われておりますが各所に独特のディテールを生み出しておりました。

2010年3月31日水曜日

房総半島

房総半島を前に内房から外房へと一人で旅をした。その頃に乗っていた車はワンボックスタイプであったが、広い車内はウインドサーフィンの道具でいっぱい。そして砂だらけ。寝袋も常備してあったのでどこでも寝られる。何の準備もなく出かけた。スケッチブックだけを忘れずに。

実は失恋旅行だったのだ。意気消沈した思いを紛らわそうと思いついた。今考えれば「岬めぐり」みたいなシチュエーションだったな。鴨川で寿司を食い、風が吹いたら御宿あたりでセールを張ろうと健気にも悲しみと戦った。高速を使わずに下をトロトロと走った。その方が気が紛れる。あとでわかったことだが精神的な問題の解決に効果があるのは時間経過だけであったと。

スケッチは勝浦港にてである。途中館山にも州崎灯台にも立ち寄った。訪ねた地でスケッチを描き続けた。鴨川に着いたときは真っ直ぐに「笹本」という寿司屋に立ち寄った。笹本に寄るのはその時点よりも随分と前に日蓮上人の顕彰のためのお堂を設計した時以来だ。その時以来ここのファンになっていた。しかし笹本の寿司をもってしても私の心を芯からは喜ばせてはくれなかった。

この病につける薬はないとは良く言ったものだが、困った事に果たしてどの娘との別れだったかがはっきりしていない。こっちの方につける薬もないのだろうな・・・今のところ。

2010年3月30日火曜日

ギョッ

この時期になるとカサゴが釣れだす。小さい頃は五月晴れの下で友達数人と船を出し、一日中釣り糸を垂らした。魚くさい手でかっぱえびせんをバリバリと食いながら、時には歌いながら「やめられない」と。


宮崎はGWともなると、陸上では結構暑くなる。その頃の私たちは対気温と水温の時間的なギャップなどは知る由もなかった。魚釣りに飽きると我慢できずに船の上からそっと足を海に入れてみる。それこそ驚いた魚のようにその足を引っ込める。

その頃には水面にホンダワラという海草がその丈を延ばし波に揺れる。今ではそのホンダワラもあまりみなくなった。海水温の上昇のせいだと思う。この海草がこの時期を過ぎると海底の根から離れ大海に浮遊していく。浮遊した海草は稚魚のかっこうの隠れ家となる。そして食物連鎖体系はこの海草の下にも作られる。

この季節の磯をお勧めする。ウニ、蟹、海苔など生物の宝庫です。

2010年3月29日月曜日

目玉焼きの正しい食べ方

レストランで目玉焼きを注文し、フォークとナイフを使って食べるにはどういう風にして食べたらもっとも正しいのだろうか。昔、伊丹十三さんが書かれているエッセイの中でも、この事が取り上げられていたと記憶している。伊丹さんの三択は確かこうだ。(記憶が曖昧)

1. 白味も黄味も食べたいサイズにどんどん切って食べる。お皿が黄味で汚れようが一切気にしない。

2. 外側の焼けている白味から順に切っていって、最後に残った真ん中の半生状態の黄味を壊さずにフォークで掬って口に入れる。この方法だとお皿は汚れない。

3. ボーイがテーブルに料理を運んできたら、フォークとナイフを持つ前に先ずテーブルの上に置かれたお皿に向かって屈み込むようにして目玉焼きに唇を当てる。そして黄味の生の部分を先にきれいに吸い取ってしまう。それを済せた後でフォークとナイフを持つ。

随分昔の話になるが、喫茶店のテーブルの上にガラス製の鳥の上半身が置物としてあったのをご記憶されているだろうか。首が長く、頭の上には帽子が着せられている。下部には何かしらの液体が入っている錘があって頭部とのバランスがとられている。客が鳥の頭を押して首を振らせると鳥は前後運動を繰り返し、何度目かの拍子にテーブルに頭を近づけて何かを飲んでいるような仕草をする。液体は拍子の役目をしていたように思う。

目玉焼きの正しい食べ方などはなく、自分勝手に好きなように食べたら良いと言うのが伊丹さんの結論だったと思うが、私は三番目の目玉焼きに口を当て黄味を吸い取ってしまうやり方とガラス製の鳥の動きとがどうにも重なってしまい時々思い出してしまう。

ある時のレストランの光景を想像してみよう。客の誰かが突然しきりに首を前後に振りだし始めた。その男が何度目かの前後運動の後でテーブルにキスをしているような仕草に移ったら、「ハハァー アイツは目玉焼きを注文したな!」・・・とこちら側の席からもそれが分かるようになる。

しかし複数のお客が一斉に目玉焼きを注文したらどうなるだろう。客席のあちこちで人々が首を振り始め、レストランの中は騒然となる。落ち着いて料理を楽しみたい人は次第に目玉焼きを扱っていないレストランを探すようになる。そしてどうしても目玉焼きが食べたくなったら自分で作るようになり、家の食卓で心置きなく首を振り始める。

2010年3月17日水曜日

お宿

もし皆さんが小旅行に行くとしたら、お宿にはどんな事を求めたりするのでしょうか。私は今、料理とお宿を提供する施設(旅館とは少し趣が違う)の計画に取り掛かろうとしています。マーケット分析をしてみたら、あまり予算を掛けられないことが分かりましたので、計画は引き算をしながら純度の高い内容にしていかなければなりません。そのためには施設をどのように捉え、お客様に満足していただけるものは何かをしっかりと把握していく必要があります。そのことを模索するために、先ず言葉によるいろいろなスケッチから始めようと思っています。最初は徒然で日々変化をしていくであろう自由な言葉のスケッチからです。

私自身がお宿に望む事は現状を見渡す限り、どうしてもネガティブなことになってしまいます。後生だからこれだけはやめて!・・と言った具合に否定的なことですね。一般的なグレードの範囲で言うとそんなホテル、旅館の類が多いような気がします。そして私はあまり贅沢な事も望んだりしていないと思います。むしろ贅沢とは対象的に、旅そのものをお遍路さんのように一日中歩いて一刻々を噛み締めるようなものにしたいので、料理もそんなに贅沢でなくて良い。歩き疲れて宿に着き、時間を掛けてゆっくりと風呂に浸かり、その後ビールを楽しむ。食事は銀シャリに出汁の利いた味噌汁、それにお刺身の他にあと一品ほど何かあればそれで良い。お膳の数などは問題ではありません。それより暖かさと質が重要です。皿数が多いが冷めている。・・・などはとてもがっかりする。だから大衆ホテルのお決まりコースは御免蒙りたい。

随分前に千葉の鴨川市で日蓮上人の顕彰を目的としたお堂を設計監理した事がある。計画段階の打ち合わせの場所は近くの鏡忍寺という日蓮宗のお寺だった。そこで戴くお昼は密かに楽しみにしていた。仕出しのお弁当を注文しておいてくれるのですが、ご飯だけは鏡忍寺で炊いたものをよそってくれた。これが至上のご馳走だった。他の品は覚えていないが鏡忍寺のご飯だけは30年経った今でもはっきりと覚えている。恐らく私がお宿に求める食事は、この鏡忍寺のご飯のようなものだと思う。

お宿の普請はどうだろう。茶の千利休は客人へのもてなしに絢爛とは対極的な世界を用意した。私は建築を創る立場に身をおいているので、お宿の空間に関する注文をすればきりがありませんが、ひとつだけ私の注文が赦されるならば、それはルール違反をやめてほしいという事になる。ルール違反とは言い替えれば「秩序がない」ということになります。秩序を無視することを犯しさえしなければ、建築はそれなりに凛としたものになるだろうと考えています。しかしほとんどの施設に凛としたものを私は感じることができない。普請に秩序さえあればどのような文化人でもおもてなしすることができる。私はそう考えている。だから今、計画をしているお宿には予算上の制約がありますが、それでも最低限、凛としたものをお客様に感じていただける普請にしようと思っている。

2010年3月12日金曜日

ニュースで知り得る事

今朝、Yahooのニュース欄に「いま、そこにある危機」という映画のタイトルになぞらえて国債に関する記事が長文で書かれていた。(同志社大教授)、一方NHKも同じく国債のニュースを流した。同じテーマを扱う二つの媒体に同刻に接した訳だが、受けた私の印象は全く違っていた。

国債の危機は先日、このブログでも取り上げた。今朝の同志社大の浜教授のご意見に頷くばかりであった。NHKのニュース報道は国営放送故に何か制限があるのだろう。しかし報道の役目とはなんだろうかを考えさせられてしまった。報道は、もし迫りくる危険があるのならば、例えそれが予測の段階であってもその危険性をきちんと知らせるべきではないか。現実に起きるかどうかは別の問題である。・・・と思う。

「先ほどの地震はマグニチュード8.0の巨大地震でした。」と事後に報道されても、その予測を知らなかったために命を落とした方の耳には届かないのである。総務省とは独立して報道の役目をもっと突っ込んで議論する必要があるのではないか。

2010年3月11日木曜日

日照雨

昨日は3月になって10日も経とうというのに、私の故郷でいう「日照雨=そばえ」となった。日照雨というのは長い前線を伴った大きな低気圧が通過する際に突風が吹いたり、雨などが急に降り出したりするのをそう呼ぶのだが、上述のように時期との関係でその言葉を捉えていたのは私の長い間の思い違いだった事が最近になってわかった。

一般的には初夏から梅雨時期によく発生する日照り雨のことを指すのだが、私の故郷では特に冬の前線通過の時に良くそう呼ばれていた記憶があるので、そこで育った私には日照り雨と「そばえ」では全く違ったものとしてインプットされてしまっていた。私にとっての「日照雨」は真冬のものだった。

先日、母に会った時に私の疑問を問うてみた。母が言うにはそばえと言うのは日照り雨の事だと。夏でも冬でも「日照雨」は「日照雨」だと当たり前のように言われてしまった。小さい頃から私なりに勝手に解釈をしていた事になる。50余年もの間。・・・さてと春かな。

2010年3月9日火曜日

おきざりにしないで!

問題の車種ではないが私もトヨタに乗っている。最近他の車から乗り換えたばかりで慣れないせいもあるが、知らない間についついとスピードを出しすぎてしまっている事に気付く。

1500CCでオートマチックだ。以前だったらこのクラスは物足りなくてイライラするほどだったと思う。日本車が世界で人気が高いはずだと思いながらその性能に感心する。故障もあまり起きないしね。しかし一方では技術が人の感覚を追い越しているのではないかとさえ思う。このギャップをわかりやすく例えるとレーシングカーに一般の人が運転することを考えたら良い。私がそんな気持ちにさせられるので女性、年配の方ではこの思いはもっと強いかもしれない。
技術はそれ自体が行きすぎて、一人歩きをし出すと人間の五感から遠ざかる。便利から危険なモノへと移行してしまう。人を基準にモノを造るということで言うと、マックのパソコンは人の手の延長というコンセプトを感じると友人が言う。建築を含めて人と深い関係にあるもの全てが、人を中心に据えておかなければならない。

2010年3月8日月曜日

ホウレン草

前から気になっていたんだけど、なんでホウレン草の天ぷらってないんだろうと。昨夜作って見てその理由がわかった。もう二度と作らない。

でもササミの天ぷらは良かった。ソースに練からしを1:1の割合で混ぜたものでいただく。むせそうになるがとても旨い。

この料理は昔、建築事務所に勤めていた頃、近くの(渋谷2丁目)「鳥よし」と言うところで初老のご夫婦がやっていたお昼の定食のひとつだった。ここの定食メニューは2種類だけ。やさしいご夫婦だった。そして心のこもったご飯だった。お元気かな。

鳥よしはもう現在はやっていないが、やはり近くに「木の香」というイワシ丼を食べさせてくれる処は今でもやっていると思うがどうかな。こちらも心のこもったお昼だった。青山通りから一本目の南側筋沿いだ。

2010年3月7日日曜日

ギリシャ問題

放漫財政の挙句のギリシャを始めとした南欧諸国の危機に救済の手を差し延べるには、EUの中でも特にドイツ国民から根強い反対があるみたいだ。同じラテン系のフランス人はそうでもないが、ゲルマン系のドイツ国民は勤勉な民族であるため、今回の事態の原因を南欧の能天気で陽気な性格がもたらしたとして、自分たちがその犠牲になるのをいやがるのだろう。わかるなその気持ち。

しかしEU連合としてはこれからと言う時だから捨ててはおけない問題である。だから政府系金融から民間金融にシフトさせ間接的な手を打ちながら税金投入ではない形をとる。やはり裏技を使うんだなぁー。政治は。

前回にも触れたがこのことがきっかけになり、EU連合は結束が強まると言われている。また同時に「南欧方面が火事だゾォー」と騒ぎを大きくした国がある。実はそちらの火事の方が深刻だったりもする。

2010年3月6日土曜日

沖縄基地問題

普天間基地は最終的にはグアム移転で決まりと言う見方をしております。私の推測では既にゴールは見えていて、政府内では右往左往しているなと思わせる演出も交えながら反対分子の牙を抜く。閣僚のバラバラな発言と対応の仕方なども面白い。そういう見方で推移を見ていくとなかなか興味深い。(沖縄の方々に対しては不謹慎かもしれない。)

もしそのとおりになったら、日本から米国に巨額の金が動くのでしょうね。そのために米国は今沖縄に拘る(フリをしている)。どれだけ要求されるかが問題だ。この手の交渉で今まで優位に立った事がない日本の外交力だから多分負けるのでしょうね。戦後の爪痕がひとつ消えることになるのだが、高い買い物になりそうだ。私はそう考えている。

2010年3月5日金曜日

耐震診断

国が行う各公共施設の耐震対策は学校の診断においては、もうそろそろ終わりに近づいているのではないかと思いますが、その他の施設ではまだ道半端といったところでしょうか。私の事務所もいくつかの学校の診断を行いました。大地震は最近でも世界各地で発生しておりますように、耐震対策は地震大国日本においては国民の命を守る重要な施策であると考えます。しかし同時に現在の財政の側面も合わせて考えなくてはならないと思います。

ここで耐震対策に充てる予算の使い方に関して少し考えてみたいと思います。先に現在行われている対策の内容を簡単に述べておきます。国が行う耐震対策は三つの業務に分かれております。第一に耐震診断、それを受けて第二の補強設計、そして第三の工事という三段階になります。このうち耐震診断と補強設計は設計業務になりますが、この部分に重複しているところがあるのではないかと私は見ています。

構造設計と言う業務は誰が行っても同じ結論が導き出されると言うものではなく、構造的な解決策はいくつかあって、それぞれの構造設計者が持つ考え方、耐力の組み立て方によって様々な結論が導き出されてきます。このような話を聞くと意外と思われるかもしれませんね。そして国が行う耐震業務では診断業務と補強設計業務との二つの業務を年度と設計者とをそれぞれ分けて別々に発注しております。
上の理由から診断業務で行われた構造計算とその考え方が、次の年度で補強設計を担当された別の設計者にそのまま引き継がれるとは限らない訳ですね。業務には責任が伴いますから担当された設計者は自分が責任を取れる方法でのみ業務を遂行します。このような現実がある限り、予算と業務の効率化という観点から国は発注方法を見直すべきではないかと私は考えます。

仮に二つの業務を一本化すると私の試算では一件(延べ床300坪程度)あたり50万円前後の予算削減が可能ではないかと見ています。全国規模では相当な金額になると思います。それでは何故一本化ができないのだろうか?恐らく国及び自治体の年度毎の予算配分の仕方に問題があると思われます。年度毎の帳尻が合えば良いという考え方ですね。それを5年、10年と続けた場合にどれだけ多くの税金を必要とするかという概念が麻痺しているのではないかと思います。これは全体システムの問題でもありますね。

2010年3月4日木曜日

アンチョビ

今年はアンチョビを作るときに、あのショッツルとかナンプラーとか言われる出汁は捨てないでおこうと思う。その方がスパゲティに入れた時にアンチョビ独特の効果が増すようだ。余ればショッツル鍋モドキも味わえるしね。調べてみるとイワシの頭も内臓もとらないで漬け込むマニアックな人もいるようだ。

背黒イワシは紀伊半島沖では2月中旬くらいから獲れていてスーパーに時々並んでいるが、宮崎ではまだ水揚げの話は聞かない。私は結構たくさん仕込むので知り合いの漁師さんに直接分けてもらうことにしている。初鰹のシーズンだから、もう近海には来ていると思うのだが、他の魚と同じく数が減少してきているのかな。待ち遠しいな。

2010年3月3日水曜日

国債

 国債などというと一般的には、普段は考えた事もない縁遠い言葉と思いますが、ここに来て我々の暮らしに大きな影響を及ぼし兼ねない状況になってきているようです。私たちの国債との関わりは個人国債を買っていない限り、通常は金融機関への預貯金を通じて間接的にということになります。日本は今年も多額の赤字国債を発行する予定でおり、私たちの預貯金がそれに充てられます。そしてその資金は毎年目減りしている訳で歳入の減少も相俟って国債格付けの後ろ盾がだんだんと失われているのです。

危うい局面を向かえている国債が、場合によっては日本に激震をもたらす可能性があるというのです。郵貯は国債の買い付け資金の大半を占めておりますので、最近の亀井大臣の郵政の再国有化を匂わせたり、或いは預貯金の限度額の引き上げ発言をしたりしているのは、危機意識の表れと言われています。
また日本国債の保有者のほとんどは国内(政府、企業、個人)ですが、米国のそれを支えているのは日本と中国とがその大半を占めております。もし米国がデフォルトでもしょうものなら、両国は無事ではいられないでしょう。現在ソブリンリスクのある国を数えようとすると片手では足りないそうです。大変な世の中になりました。

危ないと言われている国債が暴落すると長期金利が上がり、860兆円とも言われる残高の金利負担だけでも、お手上げ状態で元本返済などはとてもできなくなると言われています。我々現世代ももちろんですが、赤字国債発行で賄う子供手当てのお陰で大きくなった世代もとんでもないツケを背負わされる事になります。

2010年3月1日月曜日

メジナの熟成

この時期のメジナは旨い。子を孕んでいるのでふっくらしていて見た目にも旨そうだ。今日は切り身にキャベツの千切りを添えバターと醤油で味を整えてアルミホイルで包み、蒸してみた。ボナペティ!