2010年4月27日火曜日

ダッチオーブンで手造りパン

最近はキャンプに行っても飯ごうでご飯は炊きますが、あとは大概がバーベキューになります。ダッチオーブンはかなり重いということもあり、持ち運びを考えると余程の覚悟がないとキャンプに携行する気になれないのです。それでも前からせめて一度はパン造りには挑戦してみたいと思っていました。地方では旨いパンはなかなか手に入らないのも自分で造りたい理由です。

市販のパンを食べ続けているうちに段々と蓄積された造りたいという想いにある日突然火がついた。あるブログでダッチオーブンで造った石窯焼き風のパンの写真を見た時です。その気になったら直ぐに実行に移した。Webで材料を調べそれを買いに行った。道具で足りないものは今あるもので代用することにしました。先ず2.3回造って見てパン造りの実態を掴んでからでも遅くはないと思うからです。

食卓の上にお盆とボールを置き、材料を混ぜてこね始めた。秤なんてないので使用量は適当だ。何とかなるものです。今現在2回の経験だけですが、調味的な間違いは犯してはいないように思います。これまでで言えることはパン造りのポイントは大きく二つ、ひとつは捏ね、もうひとつは焼きではないかと思います。2回造っただけで偉そうなことを言うなと思われるかもしれませんがこの二つが全体の出来上がりを左右すると言っても良いのではないかと思います。

一回目のロールパンは完全に失敗作です。焼きの失敗。表面が硬くなりすぎたのは、発酵のときに湿気を与えなかったのと、焼き時間が長すぎたせいだと思います。市販のロールパンが全体的に焼き色がついているのはオーブン内全体の平均気体温だと思っていたのですが、でもそれは恐らく間違いでどちらかというとオーブンの直接温(輻射熱)の影響が大きいと思います。焼き色がつくまでと思い長く入れすぎました。

二回目の食パンは辛うじて合格点。捏ね30分、焼き25分です。パン型がオーブン底に近すぎたため、その部分が少し焦げたのと、生地が膨らみオーブンの蓋に当たってしまい見栄えが悪くなった以外は満足です。因みにキッチンで作っていますので下からの熱だけです。

キッチンでダッチオーブンを使用したロールパンの作り方は上図のように焼色をこんがりとつけるために点線のような金属で覆うと良いのではないかと想像しています。食パンの方は4面体の筒状のパン型をこれから探してみようかと思います。もうひとつ想像しているのはパンの種類によっては焼きの途中で蒸気を加えることを行っているのではないかと思います。とにかく思いつく度にそれを試してみて、しばらく試行錯誤を続けてみたいと思います。

2010年4月23日金曜日

アンチョビ入り牡蠣スパゲティ

十年ほど前に市ヶ谷のイタリアンレストランで魚ブイヨンが利いたスパゲティに出会って以来、その味に魅了されています。それを真似て始めのうちは自分で魚ブイヨンを作り、いつも冷蔵庫に貯蔵しておりましたが供給と消費のバランスが悪く、もったいなくて最近では良い魚のアラが出た時に作るくらいにしています。

しかし魚ブイヨンがなくてもおいしいパスタはできます。スパゲティと魚介の相性はとても良いのでいつも作りますが冬のメニューとして作るのが アンチョビ入り牡蠣スパゲティ です。アンチョビは自分で作ったものを使います。ニンニクも鷹の爪も入れます。作り方はニンニクの炒め方に注意することと牡蠣に火を入れすぎないことがポイントです。今年は時期的に牡蠣はもう終わりですが、一度試してみては如何ですか。マニアックな味を楽しめます。

因みに魚ブイヨンは玉ねぎ、セロリ、白身魚のアラを入れ、一時間ほど煮たダシスープです。これがあると冷たいご飯があるだけで簡単にイタリアンリゾットができるので便利です。パルメジャーノレジャーノを入れると言うことなしですね。

2010年4月18日日曜日

原風景

この季節に田んぼ道を歩くと蛙達のにぎやかな鳴き声が聞こえてくる。ここ宮崎市では早期水稲の田植えは既に終わっている。小さな稲がしっかりと土に根を固めている様子が歩きながらそれを眺める私にも伺える。秋に枯れ木で鳴いていた百舌は蛙を目当てに、直ぐ脇の林にその頃から巣作りをしていたのだろう。その鳴き声も重なって聞こえてくる。

私の原風景とも言える映像もこの季節のものである。夜道に母の背中に負ぶわれた私はまだ小さく2歳か3歳くらいであったろう。月明かりがあったのか、それとも感触が映像を創り出しているのだろうか、私の顔は母の肩と項の間に埋もれている様子が脳裏に残っている。そして今聞こえている蛙の鳴き声も母の背中で聞いていた。音の原風景でもある。

訪ねた先は、牛乳とヤクルトとを配達している家だった。そこで母は私にヤクルトを1つ買ってくれた。それだけの用事だったような気がしてならない。小さい私にも怪訝だった。母はヤクルトを私に与えると来た道を直ぐに引き返したように思う。子供を負ぶって夜歩くには結構長い道のりである。戦後10年過ぎたとは言え、当時は今ほど世の中は豊かではなかった。兄の世代ほどではないが、子供が食べ物をねだっても親はそれに応えようがないほどに余裕はなかった時代だ。あのヤクルトは何だったのだろうかと今でも思う。私の誕生日は5月だ。ささやかな誕生日の印だったのだろうか。

巣立ちした百舌の雛が新芽を出した梢に止まって途惑っている。雛に何かを促しているのか、傍らで親鳥がしきりに鳴いている。私は立ち止まって雛の様子をしばらく見ていた。そしてふと、親鳥が鳴いているのは私への威嚇であることに気が付いた。邪魔をしている私は早々に立ち去ることにした。そしてその先の道端には杜若の一群が娘盛りを顕示していた。

2010年4月2日金曜日

小笠原

小笠原に最初に行ったのはどのくらい前のことだろう。今でも船でしか行くしか方法がない。片道26時間くらいの所要だ。竹芝から5日おきに就航している。つまり最短期間は着いた日の三日後に同じ船に乗船するということになる。





中の3日間を船に滞在する事もできるが、私は父島の民宿を利用した。寝る間を惜しんで動き回った。夜になると浜辺にあるバーで飲み、ほろ酔いで砂浜をほっつき歩き、珊瑚と芝生が入り混じったところでしばらくの間寝た。そしてまた起きてバーに戻る。当時はアメリカ村という雰囲気をまだ残していた。昼間は父島周辺のボートダイビングだ。

二度目に行った時はひと月ほど滞在した。勤めていた建築事務所を退社した時だったのでその時間がとれた。それまでの夢であった聟島列島(通称=ケータ)でのスクーバダイビングを実現させるためだった。嫁島のマグロ穴を始めケータは憧れていたとおりの秘境だった。水彩画の2枚は一緒に行った人が描いたものです。パリの美術学校でデザインを学んだ彼女からは絵のこと以外にも多くを教えてもらったような気がします。

私たちに宿を提供してくれた小笠原の仲間たちは皆気さくで親切だった。最初の時に行ったバーとは異なるが、皆と一緒に酒も呑んだ。興が高じてきた時にキャロルキングの”You've got a friend"を大合唱した。月がきれいな晩は浜でタマナの木を叩いて酒を交わす。月明かりだけの海に服を着たままいっしょに泳ぎだした。皆どうしておられるだろうか。


釣浜はシュノーケリングに最適の場所だった。浜の入り口には防空壕があって、そこには太平洋戦争で使った機関銃が射手がいなくなっただけの状態でまだ残されている。小さな入り江になった浜で海底の美しさに、うっかりすると左右の岬を結ぶ線を超えてしまいそうになる。実際私たちは超えてしまった。川の流れのような恐ろしい潮流に巻き込まれる。

幸いにして岬近くの岩場まで3メートルくらいの場所だったのでそこへ辛うじて辿り着いた。僅か3メートルの距離なのに大海に放り出される覚悟をしたほどの潮流だった。フィンをつけていなければ恐らく辿り着けなかっただろう。

余談になりますが、ケータへのダイブはできましたが、まだ聟になることに飛び込んだことはありません。

2010年4月1日木曜日

カルロ・スカルパ

カルロ・スカルパ Carlo Scarpa.はイタリアの建築家。建築を志している人なら彼の名前を知らない人は恐らくいないでしょう。彼は1906年ヴェネチア生まれ、1978年に訪日中、仙台でなくなっています。生涯のうち、大半の仕事は古い建物のリノベーションに費やされています。創造的な修復を行い職人的・工芸的な建築家と言われています。右の写真はカステルヴェッキオ美術館で14世紀の古城を再生しています。場所はイタリア北東部ヴェネト州にあるヴェローナと言う町です。ロミオとジュリエットで有名なジュリエットの家から歩いていける距離にあります。



左のスケッチはヴェネチアからバスで一時間ほどの町にあるカルロ・スカルパ自身のオリジナル設計による最後の作品となったブリオン家の墓地にある建物郡の一画にある墓石です。彼自身の墓地もここに隣接しています。いくつかの建物が芝生の庭を囲み、それぞれを回廊でつないでいる。私たちが行った日は偶然にも彼の法事のセレモニーが行われていました。

庭に腰を下ろすと書籍で見ていた有名なシーンに接する事ができます。彼は日本の数奇屋建築に影響されていたと言われておりますが各所に独特のディテールを生み出しておりました。