2020年9月18日金曜日

意識と本能

 人の意識というのは自分で知覚している心象のことだと言って良いだろう。

しかし、意識している部分は氷山のように全体像の一角であって、ぼんやりとした無意識の部分がかなりを占めていると言う。それらの部分ははっきりと知覚されていない。

例えば前方からこちらに向かって誰かが突進してきたら我々は咄嗟に避けてしまう。この反応は完全に意識的な行動だ。次に食事をトレーで運ぶ時バランスを崩しそうになり、一瞬で体がリカバリー反応して零さずに済む これは意識と反射神経の連携プレーだろう。その次に虫が目にいきなり飛び込んできた、瞬きをする これは無意識での反射神経行動になるだろう。網膜→どこか→運動神経→瞬きという流れだ。

また速読法というのがある。私個人は苦手でやらないが、おそらく速読法というのは知覚しながら読んでいる氷山の一角の部分とぼんやりとした意識の中で読み進めている水中の氷山の部分とが一つの氷山の中で交互にやり取りをしているのではないだろうか。

また人間関係、特に思春期の男女の意識は複雑である。知覚している部分と水中に沈んでいる部分とを相互調整することがうまくいかないので本人にとっても不具合なことが起きたりする。また何かの苦痛体験が心理的な抑圧となり、意識の奥の方へ仕舞い込まれたりする場合もある。

意識というのは個人的なものである。育った環境、経験、価値観などにより、個々の意識が育てられる。意識は脳内現象と思えるが、先ほどの反射神経は脳より先に何かが指令を出していると言えそうだ。そうだとしてその指令は体内のどこから出されているのか。我々はそれを知覚することができない。

人間は多細胞生物である。単細胞生物から多細胞生物へと段々と組み換えられて行く過程で脳がなくても独自に指令し行動できる遺伝子プログラムが体内の各部にインストールされているのだろう。前の投稿でカタツムリと寄生虫のことを書いた。2つの独立した生物が寄生することで合体し、やがて一つの生物に進化(多細胞化)するとそれぞれのオリジナルの遺伝子とシステムは残るだろう。イワシの遺伝子の中には群れを為すようにプログラムされている。種を守る群れ行動は魚類から動物になってもその遺伝子が残っているかのように。

遺伝子と言えば本能を連想する。動物の子育て 群れ行動、捕食関係、ボス争い、グルーミング、伴侶を確保するための儀式などは遺伝子の中で受け継がれている。動物は教わらなくてもその時がくればスイッチが入る これが本能だろう。

それでは人間の本能は体のどこにあるのだろう。意識と本能とはどこが違うか。個人的な仮説になるが、意識も無意識も脳内現象である。一方の本能は細胞ユニットの数だけ体のありこちに宿る。そしてそれらを束ねてコントロールする場所が脳内のどこかにある。反射神経もこの系統の中に存在する。 

その束ねる場所は動物にももちろんある というより生物的には動物の方が我々の先輩にあたる。 例えばその場所とは人間でいうと小脳になる。小脳は動物時代から受け継いだものだろう。そして人間になってから大脳が大きく発達して意識を持てるようになった。

別の角度から言うと体の各部と小脳との間に意識があると邪魔になる 瞬きすることを意識が躊躇すると異物によって目は傷ついてしまう。目などの反射神経では小脳との距離が重要になる。数センチの距離だから瞬きが間に合う 例えば50cmも離れていたら虫が目に入ってから瞬きをすることになるだろう。





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