2011年4月11日月曜日

期待とリスクと平和ボケ

明けない夜はないというが、反対に言えば暮れない昼もないということだ。
今、我々の住む日本は以前の日本人が持っていた意識だけでは生きられる世界ではなくなってきている。


平和ボケという言葉で言うと例えば選挙の時、より良き将来に向けて国民を導いてくれるリーダーを選ぶのに知名度だけで選んだりする人がいる。何の功績でその知名度が上がっているのかはあまり考えない。


リスクで言うと例えば私も含めて、今回の原発事故で原子炉が造られてきた実行委員会が歩んできた経緯、内容を後で聞いて大変驚いたり、呆れたりしてしまう。多くの人命に関わる事なのに何でこんな事が行われていたのかと。


何かを期待する時には、我々は性善説でものを考えてしまいがちだから大概にして悪い方へは考えない。特にお上のなさる事に関しては間違いはないだろうと信じてしまうのも仕方のないことなのかもしれない。しかし最近の報道はその事が裏切り続けられていることを物語る。


個人的にはある意味で平和ぼけのような呑気な国民性が好きである。人の良さを表しているとも言える。許せないのはその国民性を利用して法律に抵触しない様に益出しを考えている輩が社会の中枢にいるという事だ。どうしてそうなってしまったのか。


幕末の時、日本を訪れた欧米人は当時の日本人の貧困層に至る人々までもが持つその国民性、他の国にはない特異性に一同が驚いたそうだ。今回、東北で被災された人々の振る舞いが世界に絶賛された様に。


幕末の欧米人はそれまで他の国にしてきた様に列強の「ものさし」で掻き回す事で日本民族が持つ、この貴重な民度を台無しにしてよいものかを随分と逡巡した人がいたそうである。しかし大戦後には、実際その懸念が現実のものとなった。日本人は米国の尺度で掻き回されてしまった。


最早、性善説でものを考えたり、政治リーダーを決める上で関係のない知名度で判断したりすることで暮らし易い将来が訪れると思うのは現在の日本では幻想であろう。


東北関東大地震は天災であったが、原発事故は完全に人災によるものだと考える。その理由を原子炉事業に関与してきた複数の学者がその実情を披露している。


少なからず米国に感染してしまい日本社会が出来上がってしまっている。悲しい事であると思う。これからは古き日本人の良さも保持しながら同時に疑いの目を持つ・・・というより、もう一歩先を読む努力しなければならないのだろう。


(マクドナルドで膝の上に自分でコーヒーをこぼしておいて、賠償金が取れる社会などはごめん蒙りたい。)

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